今回の Working On Gallery のゲストは、Kelsey Zimmerman さんでした。
始めて作品を Indianapolis Review で拝見したとき、「ビジュアル・イレイシャー・ポエトリー (Visual Erasure Poetry) だけど、何かが新しい!」と思って、速攻、雑誌編集長 Natalie Solmer に連絡しました。ナタリーさんとは、アメリカ中西部つながりもあって、親しくさせてもらっています。 「どうやって作品を作ったか過程を教えてくれませんか。」 と、突撃インタビューをすると、断られることも多いですが、ゲストのケルシーさんは、気さくに、詳しく制作過程を教えてくれました。 「やっぱり、新しかった。」 と言うのが、私の感想です。 彼女の作品は、近年(1980年ごろから現在の)ビジュアルポエトリー作品に影響を受けており、自身で撮った写真とコンピューターを使って、Erasure Poetry を作っています。 Erasure Poetry とは、既に出版されている本を土台として、その本から、文章や文字を消去し、自分なりの新しい文章を掘り起こしていく作業です。 そこで大切なのは、原書になる本の選び方です。 原書と、消去した後の文章を比べたときに、「新しい視点」や「面白い定義」ができているかが評価される基準になります。 例えば、Jennifer Sperry Steinorth の作品は、1931年に出版された本が原書として使われています。男性読者専用に書かれた美術書ですが、彼女のすごいところは、絵と共に、その原本の文章や言葉を使って、「女性の声」を開拓しているところです。 ケルシーさんの原書は、”Pandemic”(世界流行の病気)という題で、まさしく、今にピッタリなお題。 しかも、自分で撮った写真を、コンピューター加工しているので、統一感がある美しさが彼女の強み。そこが「新しい」と感じた理由ではないかなと思いました。
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取るに足らない、日々日常の写真を家族とシェアしています。 鏡開きが終わって、「今週暇だ~」と思ったので、YouTubeをみながら、丸餅が入っていたケースに、まずは、GLYPH のマスコット、GLYPYを描いてみました。 そうした ら! 普段スルーの妹から、 「スゴ」 と、二文字が。 母や、おばからも返事が届きます。 ちょっと得意な気持ちになったので、「じゃあ最後まで塗ろう!」と。 12月、日系スーパーが鏡餅を入荷するタイミングで、すばやく購入しないと、手ごろなサイズの鏡餅は速攻で売り切れます。 ここ2年、コロナ禍で、皆さま日本へ帰国されない方が多いのか、入荷も少なかったのか、鏡餅があっという間に売り切れました。 クリスマスツリーは飾らないときも多いのに、お正月飾りは、毎年マストです。 「鏡餅いつ頃入荷されますか」と、11月末ごろより、気合満々で挑みます。 最終的に、コンセプトは、
毎年お鏡餅を飾れること。 鏡開きが無事に迎えられること。 お汁粉でおいしく頂くこと。 鏡開きが終わった後、資源ごみになるプラスティックケースに、YouTubeをみながら落書きができること。 それを褒めてくれる家族がいること。 これを当たり前と思ってはいけないなと思いました。 写真のピンボケや、焦点が合わない淡い光達のことを、Blur や Bokeh というので、タイトルは、「Bokeh」。 髪の色が、紫から青に変わりました。
が、しかし! どの写真で見ても「黒」。 安藤忠雄さんがリノベーションした 659 Wrightwood の中で、自然の光がたくさん入ってくるにもかかわらず、「黒」。 オンラインイベント映像でも「黒」。 私には、「黒」にしか見えない! (枕カバーのみが素敵に染まっていくぜ。) せっかく、青にしたのに~。 でも、笑っちゃうのが、 英語のレッスン中のちびちゃん達、 「髪青い!」 「今度はもっと水色にしてね。」 「いい感じに青!」 ピュアな子供たちにしか、この青は見えないのではと思ってしまう。 「一緒にOO制作しませんか。」 「OOのイラスト書きませんか。」 「OO雑誌のプロモーション一緒にやりませんか。」 「コラボレーションどうですか。」と、お話やメールをただきます。 "Thanks for thinking of me" ありがたいことです。 が。 ちょっと複雑な気持ちになってしまうのです。 コラボレーションとは、「2人以上で、協力して、一から作品を作り上げること。」 簡単な例を挙げると、お料理。 2人で、今夜作る晩御飯を決め、スーパーへ行き、予算内で買い物をして、キッチンで夕食の準備をする。 2人で、「じゃあ今日はカレーにしよう!」と目標を決め、 「カレーだけど、お肉なしの豆腐カレーがいいな~」 「木綿?絹ごしどちらにする?がんもどきもおいしいよ。」 「スーパーで、今日のセール品をみて考えよう。」 などなど、2人で目標に向かって「議論」していきます。 その時、 「カレーは牛肉じゃないと嫌よ。」や、 「カレーは昨日食べたから、親子丼が食べたいわ。」 「ご近所さんも食べたいって。」 と言われたら。 そして、相手が途中で野球中継をみだしたら。 返事が返ってこなかったら。 コラボ企画は、3人以上の大人数になってくると、目標へ向かう道のりがもっと複雑化していきます。 当たり前のことです。 実際、お話を頂いたコラボ企画は、面白そうだけど、本当にやりたいことなのでしょうか。 Writers spend their lives building careers and reputations because doing so gives us the leverage and freedom to tell stories that are personally resonant and important to us, not so that we can tell your stories. We don't need some stranger's ideas, we don't want to risk being sued, and harassment is not the appropriate response to either of those preceding clauses. ちょっとした「もやもや感」が続いていたので、この本に出会えたことは、嬉しいことでした。 最近のブームで、詩・物語と共に、絵が描いてある本、ハイブリット文学やビジュアルブックなどと呼ばれている本がたくさん出版されています。 また、春には、国際翻訳週間などもありますので、 「OOを一緒にすると、実際あなたが得なのよ。」 と言葉巧みに誘われるのです。 自分のキャリアに必要か、必要でないか、自由に決めること大切だと思います。 Don't waste your golden summers chasing someone else's dream. Because we don't get many of those. 「小説真髄」を読んでいると、坪内逍遥の創作興味・過程が見えてくるような気がします。 翻訳、舞台製作、教科書作りなど、いろいろなことに関わって、偉人です。 坪内逍遥が作詞した「新曲浦島」の長唄を聞いてみました。 このYouTube番組では、女性が出演されていてかっこいいですし、音の強弱、テンポも演出されていて、現代音楽としても楽しめると思います。 いろいろ番組を拝見させていただきましたが、芝居の最初約20分、浦島太郎が登場する前の場面がほとんどの演目でした。 現代のアメリカにて、まず第一に小説の書き方で教えられることは、「どこから」の「誰」が主人公かを明確に詳細記載することです。 例えば、アメリカベストセラー作家 J. Michael Straczynski (J・マイケル・ストラジンスキー)の ”Becoming a Writer / Staying a Writer” を参照にすると、主人公は、ニューヨーク出身というだけでは足らず、 29th St.で生まれたOOからの移民で、OO語も話す、OOな家庭に生まれた人です。 などなど、読者が仮想体験できるくらい詳細を書かなくてはいけないとしています。 坪内逍遥も、「人情」(ありのままの心)の描写が大切だと言っていますので、人物描写は、現代と同じような見解です。 しかし、この「新曲浦島」の情景描写を聞いて、ふと思ったことは、「雨が降ってるよ~風がふいてる~」など細かく説明されているのですが、土地や、場所の指定が明確ではないなと。 渤海 (ぼっかい)中国北部の海の描写から、3つの島根(出雲国・石見国・隠岐)と歌詞にはありますが、平安時代の和歌では、川、山、浜の名前がしっかり組み込まれ、和歌を理解する重要な役割を担っていることを思うと、「新曲浦島」の場所は漠然としすぎているのではないかと。 本当に、「新曲浦島」は、昔話の浦島太郎の現代バージョンアップ版なのでしょうかと思ってしまったわけです。 昔話について、坪内逍遥は、 されば奇異譚と寓言の書(フヘイブル)とはその外形は同じうして、その内質は同じからず。前者は娯楽を目的とし、後者は風誡(ふうかい)を真相とす。フヘイブルの物語は、浮屠(ふと)氏のいはゆる方便にて、その眼目にあらざるから、その脚色も単純にて、只皮相をのみ閲(けみ)する時にはいと淡くして味なし。されども倩々玩読(つらつらがんどく)してその隠微をしも味ふときには、所謂寸鉄(すんてつ)人を殺す深妙の旨趣を見る事あり。「猿蟹合戦」の物語、又は「桃太郎」の昔話、「舌切雀」、「かちかち山」、皆フヘイブルの部類にして、その皮相なる物語はきはめて甲斐かいなきものに似たれど、その真相を見るに及びて頗(すこぶ)る深意ありと思はる。 「猿蟹合戦」などの昔話は、道徳心を養う読み物として意味のあるものだと思われるが、時代や語り手により、原型は多様に変化されているので、現代の読者には何を風刺しているか伝わらないし、物語芸術の価値は少ないだろうとしています。 なので、 かかれば奇異譚の作者ばらは、つとめて新奇の趣向を案じ、その脚色を複雑にし、その物語を長くものし、ますます時好に適するやう意匠をかまふることとなるべし。 時代によって、昔話を長くしたり、現代風にアレンジするなど工夫しないといけないだろうと書かれています。 「新曲浦島」は、最初の20分間が、現代バージョンアップ版として進化していると聞きました。 しかし、描写を細かくして、当時でも難解だと言われた歌詞に音楽を付けたからと言って、「バージョンアップ」といえるかなと。 J. Michael Straczynski (J・マイケル・ストラジンスキー) は、 It took years for me to understand that regardless of genre or medium, the audience is there for the characters, not the technical gimmick or the cool idea... 読者は、主人公と経験を共にしたくて本を読むのであって、派手な演出や、新しい視点を求めているわけではない。読者が共感する人間関係をサイエンスフィクション(SF)設定で再現することが大切だと。 「浦島太郎」も、一応、SF小説の部類に入るかなと。 読者が共感する人間関係は、浦島太郎と亀の友情や、乙姫様との結ばれない恋愛ともいえるでしょうか。 「新曲浦島」の発表は、 音楽や、長唄の演出により、日本現代文化かっこいい!という点では評価されています。 しかし、観客が、浦島太郎と一体になって、未知の世界を疑似体験したかというと、ちょっと疑問を感じてしまいます。もしかしたら、「かっこいい」以上に深いところまで繋がらなかったのではないかと思ってしまうのです。 形容を記するはなるべく詳細なるを要す。我が国の小説の如きは、従来細密なる挿絵をもて其形容を描きいだして、記文の足らざるをば補ふゆゑ作者もおのづから之に安じ・景色形容を叙する事を間々怠る者すくなからねど、是れ甚だしき誤りなり。小説の妙は、特り人物をして活動せしむるにとどまらず、紙上の森羅万象をして活動せしむるを旨とするものなり。 この段落を読んだとき、自身のグラフィックポエトリープロジェクトは、自然と日本文化の流れを受け取っているのだなあと再度思いました。 絵巻に感化され、2016年より、英語で書かれた自詩を「言葉+絵」に変換しています。 "GLYPH Graphic Poetry = Trans. Sensory" (Tupelo Press) はおかげさまで、たくさんの方々に読んでいただいております。ありがとうございます。 左側、"Thursdays"の英詩は、オレンジの部分が言葉として残り、右側の"On a Black Hill"グラフィックポエトリーに変換されています。 面白いなと思ったことは、右側のように、絵に移行された部分は、主に「名詞」や「形容詞」でした。 坪内逍遥は、従来の日本の物語にて、形容詞などを使って主人公や背景を描写するのではなく、絵を使って形容詞を表現していることを怠慢と言っています。 歴史的な絵巻も、話+絵と交互に成り立っていて、絵は、お着物の色や、小物、花、スポットライト風の背景色使いによって、ストーリーを補助しています。 源氏物語も絵の部分は、話を理解するうえで大切なことと専門家の先生方はおっしゃっています。 話+絵がバランス良く配合されている、日本独特の絵巻物語手法は、怠慢というべきか。 話と絵の手法は、ヨーロッパ文学でも多く見られます。ダンテの新曲も絵で地獄階層を説明していますし、ウイリアムブレイクの詩にも挿絵がついています。 ただ、話と絵が別々に存在していると思います。 日本の絵巻のように、話+絵が一体化はしていません。 話+絵の共存。 これからも考えていきたいと思います。 坪内逍遥「小説真髄」 「小説真髄」を読んでいると、いろいろ考えさせられることがあります。 お仕事上、アジア各国から提出された、英語に訳された詩を読んで、雑誌に掲載されるかどうか意見を問われます。 その時、だいたいの英翻訳は、なんだかしっくりこないのです。 きれいな情景だったり、アジア特有の美だったり。 素敵な詩は、山ほど送られてきます。 でも、なぜ、アジアから提出される英翻訳された詩は、違和感があるのだろうと。 坪内逍遥の「小説真髄」で、優れたヨーロッパの作品は、口語体で、人情(ありのままの心)が書かれているとしています。 例えば、現代のベストセラー米詩人Ocean Vuong (オーシャン ヴュオン)の作品は、口語体で、ありのままの自己・心情が描写されています。英語文型は、とてもシンプルなのですが、流れるような音フレーズで書かれています。 バイデン新大統領の就任式で詩を朗読した、Amanda Gorman(アマンダ ゴーマン)も口語体で大衆の希望の心を代弁している詩を書いていると思います。 もし、欧米で受け入れられる詩が、「口語体で人情の表現」であれば、アジアの詩は、「人情」がない、情景描写だけの詩も多いので、さて、どうしたらもっと英米読者に支持されるようになるか。 写実主義の正岡子規の俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を直訳したならば、「人情0」です。 「四季や人生を感じる」とか、「子規の病気のこと」とか、この一句の背景をご存じであれば、「人情0」ではないよと、反論される方も多いでしょう。 そこで、思い出したのが、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したおはなしです。 最初に生徒が「我君を愛す」と日本語に訳したところ、夏目漱石は、「日本人はそういうことを言わないから、月が綺麗ですねにでもしましょう」と提案されたそうです。 日本語では、 「我君を愛す」は文語体。 「月が綺麗ですね」は口語体。 夏目漱石は、日本の文化と、口語体を考慮して、「月が綺麗ですね」と翻訳プロセスを踏んだとしたら、アジア文学を英翻訳するには、この逆のプロセスをたどれば良いのではないかと。 文語体 (漢詩、和歌、万葉仮名など)で書かれた「人情」が直接表現されていない詩は、口語体で「人情」を含めた解釈で翻訳すればよいのではないかと。 「小説真髄」もう少しかじりついていきたいと思います。 坪内逍遥「小説真髄」 発端は、Lúcia Leão が、蜷川幸雄シェークスピアの劇作品について、Working On Gallery にてエッセイを発表しました。その前置きを書くのに、シェークスピア復習・勉強中、 「ワー!坪内逍遥は、名古屋の旭丘高校出身!ご近所じゃないですか!?」と勝手に親しみが沸いたからです。 学生時代、坪内逍遥のシェークスピア訳には、とてもお世話になりました。しかしちょっと日本語が古めかしいので、内容をサクッと理解するうえでは、小学生の頃父に購入してもらった、講談社青い鳥文庫の子供向けシェークスピア作品集が好きでした。 「小説真髄」で、坪内逍遥は、ヨーロッパ側の作法に重点を置き、「小説・詩の書き方」を日本と比較して、日本文学の書き方を批評しています。ものすごく、欧米の文学科1年生が実践する論文のアプローチ方法ではないですか! その「小説真髄」を書くきっかけとなったのは、東洋的思想から導きだされた、ハムレットの「ガートルードは悪女である」という論文に、ホートン教授によって芳しくない成績を付けられたからだそうです。 シンプルに善悪や道徳心で物事を判断するのではなく、色々な方向から思想を展開していくのが欧米式。(現代の英米教授たちは、「ガートルードは悪女である」って面白がって、もっと東洋式思想を読みたいと思う方々も多いと思うのですが。) 坪内逍遥、興味深いなと思うことは、比較文化に関心を持った素直単純な学者だったのか、英米式に書いて認められてやるとエゴが強かった作家なのか。 さてさて、 日本近代文学の歴史は、このYouTube番組がとてもわかりやすく説明していますよ! 私の好きな、正岡子規のことも、最後の方でお話されています。 正岡子規は、写実主義(写真を撮るようにリアルに俳句を詠む)者です。自分で体験して、その話や感情を忠実に書くという手法です。なんでも体験したいタイプだったようで、病気にもかかわらず遼東半島へも出向いています。 だから、空想が入る、ちょっとドリーミーな感じの和歌は苦手なのかと再度納得しました。 「小説真髄」で気になったところは、 ポエトリイは我が国の詩歌に似たるよりも、むしろ小説に似たるものにて、専ら人世の情態をば写しだすを主とするものなり。我が短歌、長歌のたぐひは、いはゆる未開の世の詩歌といふべく、決して文化の発暢せる現世の詩歌とはいふべからず。かくいへばとて、皇国歌をいと拙しとて罵るにあらねど、総じて文化発達して人智幾階か進むにいたれば、人情もまた変還していくらか複雑とならざるべからず。 (ここで言う、ポエトリイは、オデッセイなどの欧米クラッシック詩作品。) 和歌を「未開の世の詩歌」言い切ったところ! フェノロサが、日本文学を危惧した心わかる気がします。 日本の和歌は、写実主義に寄り添う感じの、自然を描写した作品も多いですし、善悪などの結論にいたらない複雑な恋の歌もあります。 万葉集は、文語体(漢字・万葉仮名)で書かれていても、農民や平民が詠っていたりするので、口語体のような、写実主義要素も多いと思います。 シェークスピア劇の一文に出てきそうな、和歌もあります。坪内逍遥の好きなシェークスピアも写実主義には絶対忠実とは言えないと思うのです。 This goodly frame, the earth, seems to me a sterile promontory, this most excellent canopy, the air, look you, this brave o'erhanging firmament, this majestical roof fretted with golden fire, why, it appears no other thing to me than a foul and pestilent congregation of vapours. What a piece of work is a man! how noble in reason! how infinite in faculty! in form and moving how express and admirable! in action how like an angel! in apprehension how like a god! the beauty of the world! the paragon of animals! And yet, to me, what is this quintessence of dust? ― William Shakespeare, Hamlet このハムレットの抜粋も、修辞法を使って、物事を言い換えながら、テンポよく書かれています。 坪内逍遥、とっても気になっています。 坪内逍遥「小説真髄」 |
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June 2024
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